はじめまして。田岡正也と申します。
このページではプロフィールとして
- 過去の人生経験
- 現在やっていることや仕事として出来ること
- 将来の展望
を記載しています。こんな人がいるんだなーくらいの参考にしてくださればと思います。
この記事の目次
自己紹介
名前:田岡まさや
年齢:1990年生まれ
家族構成:奥さん、娘、息子との4人ぐらし
趣味:漫画、サウナ、読書、ゲーム(気分が乗ったときは筋トレ)
ざっくりこんな人間です。
仕事は後述しますが、現在は週5で働きながら、個人事業主として電子書籍のプロデュースやフリーランスの職業アドバイザーをやっています。
時間を詰めすぎるとパフォーマンスが大きく下がってしまうのである程度の余裕は確保ししつつ、週1で何もしないオフの日を作って過ごしています。
趣味
漫画読書・旅行・筋トレが趣味です。一時期はベンチプレス95Kgまで上げました。
(それなりにマッチョでしたがしぼみました)
自然が好きなので空気のきれいな場所に行くのが好きです。焚き火を見ると癒やされます。
また、最近行けてないですが海外の雰囲気も好きです。30代のうちに色んな国を巡る予定。
仕事
元々はベンチャー企業で取締役として個人の方にブログやネットマーケティングを教える仕事をしていました。
その後、方向性の違いから独立。
6年ほど個人事業主だけで活動後、今は週5で会社に勤務しつつ、電子書籍のプロデュースとフリーランスの転職アドバイザーとして活動しています。
過去の経歴
ここからは長いので、サラッと読み進めてもらえれば幸いです。
無難に生まれ、無難に生きた学生時代
1990年12月12日 東京都内、三人兄弟の長男として生まれました。
家庭環境は良好で、両親も自慢の父親と母親です。
子供の頃は父親がめっちゃ怖かったですが、現場叩き上げで兄弟3人全員を私立大学まで行かせた父親は半端ないと思ってます。大人になってから偉大さを感じる次第です。
また、母親も料理が好きでしっかりものの母親でした。
僕自身は子供の頃は割と優等生キャラで生きてました。
勉強は出来る方だったので、小学校のテストは基本的に満点。
勉強は嫌いだけど得意だからやる
とか言う物凄い冷めた子供でした。
結果的に「嫌いな勉強を周りのためにやり続けないといけない!」という考えに勝手に落ちてしまって、中学は割と暗黒期です。
ただ、ありがたいことに周りには恵まれて、中学時代も高校時代も友人には恵まれました。
しかし、勉強嫌いは克服できず、高校時代はMMOゲームの「RED STONE」にドハマリし見事に大学受験を失敗。
滑り止めの滑り止めだった大学に入ります。
大学生時代は物凄い適当に生きてました。とりあえず単位は取って、適当にサークルに入って過ごす日々。正直大学生の1,2年はマジでもったいなかったなと猛反省してます。
なにも挑戦をせず、ただ時間を無作為に使っていた時間でした。
このまま就活して、就職して、それなりに出世して
結婚して子供が生まれて。そういう人生を生きていくんだろうな。
別にそれは悪くはないよな。
とか思ってました。
活字本との出会いとドロップアウト
そんな感じでダラダラ~と生きてた大学3年生の夏、大学帰りのファミレスで友達が読んでた「金持ち父さん貧乏父さん」という活字本に出会います。
今までビジネス書を読んだことがなかった僕は、プロフィールを読んだ時点で
「お、俺は投資をやるために生まれてきたのかも知れない・・・!!」
と一発で洗脳されてしまいました。
普通の人生で終わってもいいんだけどどうせならば挑戦してもいいよな。
見事に本に載せられていただけとも思いますが、何も挑戦してない人生に無意味感を覚えていたのかもしれません。
その後僕はmixiで出会った人から見事に投資ツールを借金して買うことになり、ビジネスの世界にのめり込むことになりました。
稼げなかったビジネス人生
半年後、大学3年生の12月・・・結局やりだした投資はぜんぜん稼げなくて、その後も色んなビジネスに手を出しました。
・イベントサークルの代表
・完全歩合制の家電製品の飛び込み営業
・海外サイトを利用した投資
いろいろやりましたが、結局全然稼げませんでした。
「もうすぐ就活が始まる」「俺は借金抱えてマイナススタートかよ;;」と絶望をしていました。
その後、わらにもすがる思いで、当時「ブログアフィリエイト」を教えているスクールみたいなものに参加。
必死にブログを書いている中、気づけば大学最後の4年生になりました。
フル単からの大学中退
4年生・・・後卒業に必要な単位は「必須科目」である「卒業研究」のみ。出来る限りの時間をブログやビジネスに注ぎ込みたいと考えていました。
しかし、GPA(大学の成績)が平均程度だったため、研究室は抽選で決定。
「大学内で最も研究がきつい」と言われてる研究室に入ることになりました。
これが悲劇の始まりでした。
最初は研究室もゆるい感じで
まぁ出来る限り早めに研究を終わらせて帰ろうぜ!
くらいな雰囲気でした。
しかし、徐々に帰る時間が18時から、21時になり。
研究室に泊まる日数が週に1日、2日と増えていき。
気づいたときには研究室に週3,4で泊まる(当然ベットとかないので椅子を並べてその上で寝る)土日のどちらかも大学に来る。そんな生活を送ることとなりました。
そして、当時の僕はその生活をすることになんにも意義を持てていませんでした。
- 興味もない研究対象。
- 前年度と全く同じ研究をすることに無意味さ。
- 一秒でもブログやビジネス時間を使いたい自分。
研究態度も適当になり、研究室メンバーと対立。
半年がすぎる頃にはストレスで体全身に蕁麻疹が出て、結果的に大学を休学しました。
今思えばもうちょっとやりようが合ったと思いますが、若く精神的に未熟でした。
その後、休学中に借金をしていることを親に打ち明けた所、見事に大目玉を食らい、コンビニ夜勤とピザ配達のバイトで週8バイトを経験。
借金の多くをバイト代で返済しました。
大学中退後、ITベンチャーの立ち上げに参加
その後、もう一度4年生として大学に通うことになった際に。
「自分で研究所を選べない」「もう1年大学に通いながらビジネスは出来ない」と思い親に土下座して大学を中退。
その夜にいたたまれなくなって家出して、当時付き合っていた彼女の家に転がり込みました。
その後、自分も学んでいたビジネススクールの営業を4ヶ月ほどやったけど売れなくてバイトで食いつないでいた頃
田岡はネットが強いから、会社立ち上げるの手伝って。
とベンチャーの立ち上げに参加することになりました。
ベンチャーには最初は下っ端として入りましたが、2ヶ月ほど過ごした後、当時No2だった友達が独立。
その会社に残ったので必然的にNo2になりました。
このベンチャー会社で、リストマーケティング、コピーライティング、Webマーケティングなどの一通りの業務を経験。
一応経営陣であったことから、経理周りや社員マネジメントなどを経験しました。この時の経験は自分の中で紛れもなく血肉になっています。
子供が出来て自分の方向性を初めて考えた
しかし、5年ほど勤めた後、この会社を辞めることになりました。
3年ほど過ごした後、会社の方向性が大きく変わり、自分が事業に関わることに意義を持てなくなっていました。
独立してしばらくした今でこそ「方向性が違った」と話すことが出来ますが、当時の自分では知る由もありません。
「自分を育ててくれた会社のことは好き」だけども「なぜかやる気が出ない」
そんな状態の中、奮起や葛藤を繰り返して2年ほどが経過。
気づいた時にはパフォーマンスを発揮できなくなり、自分が会社にいる意味を見失っていました。
直近の記憶だとこの時が一番精神的にはきつかったです。箱根に2ヶ月で6回行くくらい病んでました。
そして2018年の10月に奥さんの妊娠が発覚。
夜パソコンの前にいる時にふと
仕事に対して誇りを持ってない自分の姿を将来の子供に見せることが出来るか?
と考えた時に出た答えは「No」
その時に「気づいてしまったならばもう会社に居られないや」と思い退職を決意。
その一ヶ月後に最低限の引き継ぎを終えてフリーランスになりました。
余談・今でこそ思う反省
これは今だからこそ思うことなのですが会社にいる当時から、むしろもっともっと早くの段階から
「自分が何をしたいのか?自分がどんなことをしていきたいのか?」
これを深く考えてこなかったことが何よりも駄目なことだったと強く反省しています。
当時の自分は会社への愛着だけでその会社に残っていました。
会社のために尽くせば、巡り巡って自分も良い方向に行くだろう
良く言えば他者貢献の心ですが、自分の人生を他人にぶん投げていただけとも言えます。
「自分がやりたいことではないのに【会社のため】なんて言い訳をして、自分の方向性を考えなかった」
結果的にそれが会社に迷惑をかけましたし、自分自身にも大きなダメージを与えることになりました。
もっと自分のやりたいことや、自分の未来の方向性を日々考える習慣を身に着けていれば。
そうしていたらきっと、会社の方向性が変わったタイミングで早めに話を切り出せただろうし、
もっともっと綺麗に会社と分かれることができただろうなと今では強く反省しています。
当時の経験から学んだことを書いた本「No2こそ自分のために生きろ」
個人事業主となってわかった、お金を稼ぐことの大変さ
会社をやめたのは2018年の12月。
まず、住む場所を自然が多い場所に変えました。
そして当初は心が疲れていたので、じっくりと休む期間を取りました。
その後、400万円あった貯金は一年で尽きました。
子供が生まれる時には奥さんが羊水過少で入院したりしたり、生まれる時も後少し!というところから4時間産まれなかったり、産まれた子供の足が変な向きだったり、脳になにかあるとか言われました。
流石にこの時は頭が真っ白になりましたね。
Twitterを始めてフォロワーに沢山集まってもらったけども結局辞めて。
タイに友人といった際に命の危険がある様な目にあって。
四苦八苦しながらも一時期は安定した生活を送るくらいになって。
それも捨ててYoutube始めたけどうまく行かなくて。
就職したけども2週間で辞めて。
色んな所に顔出したりしたけど、やっぱりうまく行かなくて。
5年ほど個人事業主として活動してきて、二人目の子どもが出来たときに
派遣社員として人材系の会社に勤務。
その後、業務委託として週5で会社に勤務することになりました。
現在やっていることと未来の展望
今は何をしているのか?
ざっくりまとめると
・大学3年生のときに「金持ち父さん貧乏父さん」とビジネスに出会い
・23〜28歳をベンチャーで過ごし
・28歳〜32歳を個人事業主として四苦八苦しました。
そうして33歳〜の現在は、会社に勤務しながら、電子書籍のプロデュースと転職支援のアドバイザーをしています。
生き様はわからないけど、死に様だけは決まってる
振り返ってみたらこの30年間、迷いに迷い続けるような人生でした。
ここには失敗経験を多めに書きましたが、成功体験も沢山あります。
ベンチャー時代には一回のプロモーションで数億円売り上げる事業に何度も参加させてもらいましたし、経営者の方と触れ合い、考え方や行動を近くで見れたのは大きな財産となりました。
自分で1からスタートしたTwitterアカウントが1万人にフォローされたことも良い経験でした。
色んな経験がありましたが、本当に運が良いと今でも思います。
しかし、自分には「自分がやりたいこと」を考える能力が足りなかったのも事実です。
「なにをやりたいのか?」はある程度生きると自分の中に溜まっていくものなのでしょう。
だけども、それを考える習慣がないと「考えても自分のやりたいことがわからない」状態になってしまう。
自分もこの状態に陥ってました。
そして、フリーになると「やりたいことがない」状態では走ることはできません。
自分もようやくフリーランスになってから「自分のために生きる」を必死に考えるようになりましたが「何のために生きるのか?」という所では迷う時も多々ありました。
ただ、ぼんやりと死に様だけでは意識するように努めてまして。
それは
- 「死ぬときには1000人以上の素晴らしい人に囲まれて、惜しまれながら死ぬ人生を送る」
- 「世の中に『電柱のような人々の生活を進め、支えとなっている何か(有形でも無形でも)』を作る」
これだけは、死ぬまでにやろうと決めています。
ずーっとずっと、他人のために生きることを自分で決めつける人生でした。
「親や周りが喜ぶから」で小学校時代は勉強してましたし、ベンチャー時代も「会社のために」ってことしか考えてこなかった。
「自分が何をしたいのか?」と聞かれても、いまいちピンとはきませんでした。
「未来を定めたほうがいい。」というのもよく聞きはするけど、ピンときませんでした。
しかし、自分らしく幸せに生きるためには「自分がやりたいこと」が必要だというのも、事実なんだろうと思います。
だけどそれは、必ずしも具体的なものである必要なんてないと考えてます。
「死ぬまでに何をやりたいか?」を考えたときに浮かんだ光景は、「大勢の人に看取られて死ぬ自分」と「電柱みたいなものを作りたい」という漠然とした想いでした。
今後の人生をどう生きるのか?
未だに僕も具体的にやることは明確ではありません。
だけど、この人生の死に様を考えることで、少しだけ、生きる世界と目的が、くっきりと見えるようになった気がしています。
今までは「何かに繋がるかも知れないから、目の前のことを頑張る」でしたが
今は「自分が納得行く死に様に向かうために、目の前のことを頑張る」と少し軸が出来ました。
このブログでは、そんな自分自身に似た人の人生が活性化するような情報を、生きた記録として残していければと思ってます。
大層なことを書きましたが、旅もしたいし、おしゃれもしたいし、親孝行もしたいし、生きるうえでやりたいことはたくさんあるので、それが全部できるように日々を生きて行こうと思っています。
最後に
こんなに長いプロフィールを最後まで読んで頂きありがとうございました!!
何かしらで出会う機会がありましたら、その時は仲良くして頂ければ幸いです。